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KOJI's物語(クリエイター編)

2005年の私

1967年 4月17日、広島県福山市に生まれる。
1986年 高校を卒業後、大阪デザイナー専門学校に入学。
1988年 グラフィックデザイナーとして某デザイン会社に入社。
1993年 某デザイン会社退職し某印刷会社へ入社。
1994年 初めてMacintoshをさわる。
1998年 印刷会社退職しデザイン事務所ケーブランド設立。
2002年 イラストレーターとしての活動を始める。


小さい時から絵が好き?
そう、あれはまだ私が物心ついていない2歳ぐらいの時だったのでしょうか、母親の言う話では鉛筆を持つやいなや、おもむろに家の壁一面になんとラクガキを始めたそうです。母親は何度となくラクガキを止めさそうとしたのですが、私はラクガキを止める事がなかったそうです。今も実家に戻ると、その壁画が残っています。そして裏面が真っ白な片面刷りの新聞折込チラシを与えていると飽きもせず延々と絵を描いていたそうです。こうして考えると、その頃から絵が好きだったのかな~?

文字に興味が?
ある程度物心がついてきたら、私はしきりに本を欲しがっていたようです。本屋の前を通ると本が欲しいと駄々をこねていたそうです。しかも、既に買ってある本でも欲しがってたそうです。私の微かな記憶では、字を読むとか絵を見るとか、そういう意味で本を欲しがっていたのではないように思います。
当時「めばえ」という本をよく買ってもらってたのを今でも覚えていて、表紙タイトル文字が凄く気に入ってた気がします。書体オタクな幼児ですね。特に、「めばえ」の「え」という書体が子供心に「カッコいいなぁ」と凄く気に入ってたような気がします…。
その頃は私も幼児ですから書体がどうのなんて当然知識も無いし、文字を読む事すらまともに出来ていないのですから、文字という認識ではなく明朝体という図形として活字の美しい何かを感じていたのかも知れません。理論的に文字がカッコいいとか考えてた訳でもなく、ただ漠然と活字に何かを感じたのかも知れません。(笑)

小学校で一気に絵が好きに…。
4歳で保育園に入り、この保育園生活では、得にお絵書きとか工作等が好きだという特別な感情は無かったように思います。たぶん、人並みの興味程度だったように感じます。
ただ、絵や工作等、人よりも上手に描きたい。創りたい。という意識は強かったのじゃないかなぁ~。上手く出来ないと凄く悔しい気持ちになってた気がします。ある日の工作で、友達が出来ないと泣いて先生に手伝ってもらってるのを見て、私は悟りました…。どうしても自分の思うように出来ない時には、「出来ない」と泣けば先生が手伝ってくれるという事に気がつきました。私は工作の時間になると毎回泣いて先生に手伝ってもらうという姑息な手段をとっていたような気がします。自分でやろうが、やるまいが上手に出来ればそれで満足してました。悪知恵は、はたらいていたんですね。(笑)
小学校に入学し、図画工作という授業に出会い、初めて「自分は絵が好きなんだ」という事に気がついたんだと思います。当然小学1年生だから、そんな目的を持ったような気づき方ではないですけどね。絵を描いていて楽しいといった感じはありました。先生からも上手と褒められ気分よくしていたことは間違いありません。
また、小学校の6年間では、数々の写生コンクール等で特選や入選をもらいました。このコンクールがどのようなものかは分からないまま、絵を描いて賞状が貰えるというのは、子供ながらに気分が良かったのを覚えています。

小学6年生から中学1年生で映画のタイトルロゴのとりこに!
小学校の高学年頃から映画好きになり、よく映画を観に行くようになりました。その時にもらってきたパンフレットやチラシを見て、映画のタイトル文字が、立体になっていたり、ひび割れていたりと、文字が絵のような表現になっている事が単純に面白いと感じました。その頃、私はレタリングなんて言葉すら知りませんでしたから、純粋に文字の形が面白いと感じていただけなのでしょうね。マンガのキャラクターを描くのと同じ感覚で映画のタイトルを模写していました。
当時の映画として覚えているのは、「ジョーズ」「ジョーズ2」「007ムーンレイカー」「ナバロンの要塞」等ですかねぇ。懐かしい映画です。
そして私は、中2になってから美術部に入部しました。1年の時は何故か剣道部だったんですよ。でも私はスポーツが苦手でしたから1年間で辞めました。しかし、中学の時は、強制的に何かクラブには属さなくてはならなくて、適当に美術部選びました。美術部は、夏休みになると果物をモチーフにした静物画を油絵で描くのですが、絵を描き終わった後に、その果物を食る事が出来たわけで、それが目当てで美術部に入ったような気がします。入院でもしない限り…いや、入院しても口に出来るかどうか分からない高価なメロンなんてものがモチーフの中にありましたから…。不純です。ハイ。(汗)

高校時代は無理矢理美術部に!
私は、中学時代の自分が凄く嫌だったんですよね。内向的な性格で、勉強は苦手、スポーツも苦手な奴で、ドラえもんに登場する「のび太くん」って感じかな…。アニメが好きで、オタク街道まっしぐら。その為か陰湿なイジメのターゲットとされ、よく呼び出しを食らっては、殴られたり、カツアゲされたりと、今、思うと暗黒の時代でした。でもね、私の経験上言える事ですが、虐める側と虐められる側って、然程変わらないよ。よくイジメは虐める方が悪いとされるけど、虐められる側にもイジメのターゲットとされる悪い部分を持っていると思うのです。自分で自分はなかなか見えないから、その時はなんで自分だけが…って思ったりもしたけど、今の自分から当時の自分を見ると、イライラしちゃうもん。(笑)
自分より強い者に歯向かえず、虐められたら、その腹いせの矛先を自分より更に弱い人に向けたりとね…。虐める側も、虐められる側も、何ら大差なくてどっちに転ぶかは紙一重なんだよ。そんな中学時代の自分は今でも嫌いです。
高校に入ったら心を入れ換えて自分を鍛える為にとスポーツ系のクラブに入りたいと思ってました。それで、球技等のチームスポーツは人の足を引っ張ってしまうし、兎に角、苦手でしたから、単独で競技の出来る陸上部なら…と思って、陸上部に入部しようと決めていたんですよ。
しかし、私が中学時代に美術部だったという理由だけで、美術部の顧問にしつこく入部を迫られ、延々と勧誘され続けました。私は、しきりに「陸上部に入るから美術部には入りません。」と断っていたのですが、顧問に「掛け持ちでいいから入って」との言葉に、しつこい勧誘から逃れる為、取り合えず幽霊入として名前だけ入部することにしました。今思えば、この勧誘が無ければ、現在の仕事もしていなかったのかなと…。これが私の人生で最初のターニング・ポイントかな。
高校では、本当に美術部というのは名ばかりで活動は全くしていませんでした。そして、3年の夏が終わり、陸上部を引退した後、本格的に進路を考えなきゃならなくなった時に、当時つきあってた彼女から「絵が上手だから絵の仕事するのかと思ってた。」なんて言われて、その時、グラフィック・デザイナーを目指したいと皆より遅い進路決断をしました。本当はそれまで情報処理系の進路を考えてたんですよね。これからはパソコンの時代になるだろうからと言う、たったそれだけの理由で…。この彼女の一言がこれまたターニング・ポイントとなっちゃいました。それから夏休みの間、毎日デッサンに明け暮れ1日最低5枚のデッサンを描いていました。美術部の顧問からは、デザイナーを目指す他の人よりかなりの遅れをとっているから、人の倍は絵を描かなくてはダメだと言われ、学校で絵を描き、家に帰っては絵を描き、必死に絵を描きました。

芸大3校、みごと撃沈!そして大阪デザイナー専門学校に入学。
そして、ついに受験。芸大は、どの学校も倍率が10倍以上の狭き門。受ける芸大3つ、全て不合格!やはり、高校3年の夏からの突貫工事みたいな事して受かる訳がない。それで、受かったら皆そうしますよね。(笑)
とりあえず、うちの家計では浪人なんて、そんな贅沢は出来ないので大学は諦め、専門学校でデザインを学ぼうと決意しました。専門学校なら何処が良いのかさっぱり分からず、取り合えず取り寄せたパンフレットの中で、一番パンフレットが立派だった大阪デザイナー専門学校に行こうと決めました。ハッキリ言って、デザイン学校の評判なんて、こちらでは皆無だったし何処の学校が良いのかサッパリでしたからねぇ。
しかし、気付けば願書締め切りが明日!「郵送していたら間に合わない」すぐに願書を持ち新幹線に乗り大阪に向かい願書を提出してきました。これで、一安心。…なんて思ってたら、翌日TVで大阪デザイナー専門学校のCMが…。なんと願書受付期間が延長されている。一体なんだったんだ?慌てて大阪まで願書持っていったのは…。とにかく私は大阪デザイナー専門学校に「みごと」…なのか?入学する事ができたのでした。

初めての街、何もかもが新しい発見!

専門学校時代
それなりに遊びもしました

初めての大阪の街での下宿生活。何もかもが新鮮だった。街は地元と比べ情報に満ちあふれ、何もしないでも、勝手に情報が入ってくるのがとても嬉しかった。いつもの足は京阪電車を利用していましたが、車内を見上げれば車内吊り広告、駅の壁面には大きなポスター。街全体が、デザインの勉強の素材で溢れかえってるといった感じがしました。大きな街の人達には、当たり前の光景かもしれませんが、地方の田舎から出てきた私にはカルチャーショックさえ覚えました。地下道に入れば、迷子になり出口が分からなくなってしまったり、キャッチセールスには、呼び止められて、高額な訳の分からない物を買わされたり、田舎者はそれなりに大変でした。(^_^)

専門学校では、知らなかった事だらけ…。

専門学校時代通学中
専門学校通学途中に友達から撮られた1枚

学校では何もかも新鮮でした。実は、グラフィックデザイナーを目指して、この大阪デザイナー専門学校にやってきたのですが、実は、グラフィックデザイナーがどんな職種なのか、どういった事をする人なのか、さっぱり分かっていませんでした。絵が描ければいいんだ、そう思っていましたから…。私は、何も分からないまま、このデザインの世界に足を踏み入れてしまったのです。そして、それと同時に挫折感も味わいました。周りのみんなが絵が上手いのです。当たり前なのですが…。私もある程度絵が描け、高校までの学校では自分より上手い人少なかったんですよね。自分も上手いと言われる部類に属してると思ってましたから。(^_^;)
でも、専門学校や美術大学って、絵の自信のある上手い人ばかりが集まってるんですよ。私より上手い人がゴロゴロいるんですよ。皆、絵に自信があるからこの世界を目指してやってくるのですから当然の事ですね。
そのなかで、私は卒業までいけるのかな、なんて思い、必死でみんなについていこうと努力しました。友達にはそんな素振りは見せてなかったと思いますが、内心必死でした。

1年目でデザインの基礎を学んで、2年目でイラストレーションを専攻。

専門学校時代グループ展
仲間とギャラリーを借りて行なったグループ展

1年目は、デザイン全般にまつわる基礎を学び、なんとか皆についていく事が出来ました。2年目で学科を専攻するようになるのですが、アドバタイジングデザイン(ポスターやパンフレット等の商業広告)・タイポグラフィー(文字デザイン)・パッケージングデザイン(商品の袋や箱等のデザイン)・イラストレーション(絵)と4つに分けられました。私は、ついていく事だけで必死だったから、どれも満足に出来なかった。だから苦手なものから消去法で選び、最後にイラストレーションが残りイラストの道を専攻しました。
イラストを専攻したと言っても描き方を教えてくれるわけでもなく、兎に角、毎日、毎日、我流で絵を描きました。画材の使い方も教わるではなく、全て我流。だから、いろいろ自分で試してみました。エアブラシ・水彩絵の具・油絵の具・パステル・アクリル絵の具等、はたまたファンデーション等の化粧品や醤油等の食品も使って絵を描いたりしてみました。

自分の絵が欲しい!
絵を毎日描いていると、ある日自分の絵ってなんだろうと思うようになってきました。その頃、私はイラストレーターの永井博氏や鈴木英人氏に憧れていました。また、イラストを学んでいますと、いろいろなイラストレーターさんの情報も入ってきます。そして、それそれのイラストレーターさんには、それぞれの、その人独特のタッチを持っていると言う事に気がつき、私も自分自信のタッチが欲しいとそう思うようになってきました。それと同時に、今まで描けてきた絵が上手く描く事が出来なくなったようにも感じました。しかし、どうして良いのか分からないまま、絵を書き続ける事しか出来ませんでした。

小さな力に、解決の糸口が…!
スランプになり、絵が描けず。気分転換に、街をブラブラ歩いていると、1軒の小さなギャラリーに辿り着きました。そこで展示してあったのは、4才と5才の兄弟の粘土細工や絵が飾られていました。私は、吸い込まれるように何気なくギャラリーの中に入っていきました。そこにあった作品は、私が探していたものに巡り会ったような、そんな印象をうけました。そのとき、私はずっと自分のタッチとかテクニックに気を取られていて、自分で本当に描きたい物と言う事を忘れていたように思えました。このギャラリーにきて4才と5才の兄弟の作品を見て、あらためて思いました。当然4才と5才ですからタッチやテクニック等こだわっていません。しかし、「創りたいものを創る。描きたいものを描く。」…といった素直な気持ちで作品が出来上がっているので、見る者にストレートで納得させる力を感じました。その時、私は思いました。描きたい物を描きたいように描けばいいんだと…。

専門学校卒業の時。

学生時代の写真~先生にイラストを見てもらってるところ~
先生から制作過程のアドバイスを頂いてるところ

スランプから抜け出た私は、純粋に描きたい物を描くといったスタンスに変わっていました。卒業制作も、人より多めに製作し、なおかつ自分を最大限に表現できたのではないかと思っています。満足のいく形で卒業することが出来たと思います。しかし、私は絵ばっかり描いていた為、卒業しても就職先が決まっていませんでした。えらいこっちゃ~~。(^_^)
その時、学校側から「仕事が決まってないのだったら、講師助手で学校に残らないか?」という誘いがありましたが、就職は地元に帰ると言う事を両親との約束にしていましたし、自分自信帰ると言う事を決めていましたから、誘いを断ってしましました。今から考えると少し勿体無かったかな~なんて。しかし、私の就職の行方は…。

新卒・中途採用!

某デザイン会社にて
某デザイン会社 社員旅行での1枚

地元に戻ってきた私は、地元求人情報誌を見て、地元デザイン会社に就職したのでした。実は新卒の採用はすでに終わっており、中途採用と言う事で、就職する事が出来ました。その為、普通新卒で入社した場合、新人研修というのがあると思いますが、私は研修なしでいきなり実戦投入される事になりました。
そして、その仕事は私がずっと学生時代に絶対やりたくないと思っていた、新聞折込チラシのデザインでした。だけど、ペーペーの私は、何事も下積みと嫌だったけど、いつか本当にやりたい仕事につけると夢見て必死でカラス口やロットリングを使って線引をするのでした。実は専門学校でカラス口やロットリングを使って線を引いていましたが、実際にプロの仕事としては全く使えない線だったのです。綺麗な線は、引き初めと引き終わりにボタを作ってはならず、引き初めと引き終わりで均等な線を引く事だったのです。今は、PCを使いこんな手描きの線引をしている新人さんなんていないでしょうけど、アナログ時代は、まず綺麗な線が引けないとデザインをするのはもちろん、版下も触らせてもらえなかったのです。
綺麗な線を引くのに、1ヶ月間毎日線引きが続きました。線引きがまともに出来るようになったら、今度はトレーススコープ(トレスコ)による、ロゴ取りでした。毎日、先輩のデザイナーさんから、指定されたロゴを指定された大きさでロゴを紙焼きしていました。1日中、暗室にこもるなんてザラでした。それと、同時に使用する写真の切り抜き作業。クライアントさんが、大手マイ○ルのショッピングデパートと言う事もあり、写真の数は半端ではありませんでした。1枚1枚、写真の商品をハサミで切り抜いていくのです。終われば、ハサミを持っていた手がブルブル震えているのです。線引き・トレスコ作業・写真の切り抜きで3~4ヶ月くらい経ちました。そして、始めて版下を触る事が許されました。

版下が触れる喜び。
デザインは、まだ出来ませんが版下が触れる、当時はそれだけで凄く嬉しかったです。3~4ヶ月間はずっと雑務ばかりでしたから。まあ、雑務と言っても重要な下積みなのですが、やっぱりデザイナーで就職したのだから、やっぱりデザインがやりたいじゃないですか。それが、そのデザインに少し近付いた版下作業だけでも凄く嬉しく感じましたね。校正用紙を見てその通りに訂正していく、そして、ここで写植の発注(写植指定)を教わるのでした。専門学校でも習いましたが、やはり学習と実践では違いました。
また、仕事では学校では気にしていなかった時間というのもシビアに気にしなければならないですから、全てにおいて1から学ぶと言った感じでした。版下をつつき出し入社して半年ぐらいが経ち、始めてデザインをさせてもらいました。

デザインが出来る喜び、しかし凄いプレッシャーが…。
今では考えられないのですが、初めてのデザインは店名周りのパブリックスペース。大きさにして5×10cmぐらいの小さなスペースだったと思います。しかし、仕事で始めてデザインが出来るという喜びの反面、小さいスペースだけど自分のしたデザインが世間に出回ると思うと緊張してしまい考え込んでしまいました。5×10cmの小さなスペースに30分ぐらいの時間をかけてしまったように思います。その30分の間に、頭の中では学校で習った基本的な視覚誘導やアイドマの法則等がグルグルと駆け巡りました。(笑)
一生懸命プレッシャーと戦っている私と、相反して先輩デザイナーは、言葉が悪いですがパブリックスペースだから適当に考えていたんだと思いますよ。出来上がったデザインを渡すと、何か言われるかなと構えていたのですが、「遅かったね」の一言で、簡単にデザインを受け取ったのでした。「これじゃ使えない!もう一度やり直し!」って厳しい言葉が返ってくると当時の私は思ってましたから…。(^_^;)

初めての本格的なB4チラシのデザイン。
そして、更に時が経ち、小さなデザインを数々こなしていると、始めてB4サイズのチラシのデザインを手掛ける事に…。デパートのチラシにしては原稿点数も比較的少なく簡単な物でしたが、初めての私には16時間ぐらいかかったのを覚えています。
朝から始めたデザインは、終わる頃には、深夜になっていました。今なら2時間もかからないと思うのですけどね。1色物のチラシでしたから。でも、当時はデザインが出来る嬉しさと、自分がなかなか思うようにデザインの出来ないもどかしさの両方を感じながら必死だったと思います。
大手ショッピングデパートのチラシデザインで徐々に力をつけ、3年目を迎える頃、入社当時から思い描いていた独立の夢が脳裏に浮かぶ様になってきました。(まだ、青二才なんですけどね。)今のデザイン会社では、フリーで経営する為の経理面が見えて来ないと思い、退社を考え、経理面が見えそうな少人数の小さなデザイン会社を探し始めました。

そして、見つけた社長と社員3人の会社。
それから、デザイン会社を辞め、次の会社へ入社。そこは、社長と社員、私をいれて3人の会社。望んでいた経理面は、はっきり見えました。人がいないから、デザインから集金や雑務すべてこなしていかないと成り立たないのです。集金に行き領収を切ったり、ここの会社で初めての経験でした。経理面はデザイナーの修行のように時間のかかる物ではなかったのですが、この時会社が厳しい状態にあると言う事を知りました。小さすぎるから、なんでも見えてくるんですよね。(^_^;)
それと、この頃からデザイン業界にMacintoshの波が来はじめていました。そして、経理面も大体見えてきたし、ここではMacintoshの事は学べないと考え、退職を決意しました。

デジタル処理をうたい文句にしている、地元印刷会社に就職。

某印刷会社にて
デジタルが謳い文句の会社だが机の上にパソコンは1台も無し

それから、私は、地元の印刷会社に入社。ここの印刷会社は、地元の中でも先頭をきってデジタル処理に取り組んでいました。その印刷会社でデザインを担当し、また印刷の行程など身近に見る事が出来ました。しかし、印刷会社と言う事もあり、仕事の流れは印刷中心に流れていました。良いデザインよりも、いかに早くデザインを仕上げて、輪転機を止めないようにするかがポイントでした。また、Macintoshの導入も早く、私が入社した時は、まだ版下作業がメインでしたが、その時の版下もデザイナーの間では評判の悪い、電算写植機の版下でした。
電算写植機は、版下が1枚もので作れるから、それまで製版時に版下に貼付けられた写植文字の影取り作業等の行程が大幅に短縮出来るので導入されているようなものでした。全て品質よりも印刷工程の作業性が目的です。制度はあまり良いものでは、ありませんでした。
そして入社して数カ月して、Macintoshが入ってきました。当時最強だった、Quadra900。内蔵ハードディスクも、120MG。今では何も出来ないスペックですよね。(^_^;)
途中バージョンアップしてQuadra950になりましたけど。はっきり言って全ての事が初めてでした。会社にMacintoshを使える人が誰もいないのですから…。ここで、私のMacintoshの独学が始りました。本当はデジタル処理のうたい文句の会社だから、教えてもらうつもりだったのですけどね。表向きの言葉と、実際は全く違ってたという事です。要するにクライアント様をも騙してるって事ですね。

話が違うぞ~、しかも、不安定なMacintosh!
訳も分からずMacintoshに悪戦苦闘。必死で組み上げたレイアウト。当時は、よく分からず、こまめな保存など全くしていなくて。途中でシステムエラー(爆弾)が出たりして、今までのレイアウトが全てパーになったり、MOを落っことして、データーが消えてしまったり、また残業で1人真夜中に作業中にシステムクラッシュを起こしてしまい、訳も分からないまま、誰にも頼れず、説明書見ながらシステムの再構築をして徹夜になったりと必要以上の苦労をしたように思います。当時のMacintoshは、とにかく不安定だったのを覚えています。Macintoshより、手作業の版下の方が、絶対に早く確実な物ができると、ぼやいていた時期もありました。
しかし、このトラブルなど、自分で処理をするといった事を経験してきたから、今の自分が出来ているんだと思いますし、ある程度のトラブルでは、あまり動じない精神力が出来たんだと思います。…たぶん。

印刷屋であるがゆえに、デザインに対する考え方の違い!
Macintoshもなんなく使いこなせ、一般にもMacintoshが仕事に溶け込み、当たり前になってきた頃、自分も会社で、ある程度の地位を頂きました。しかし、デザインに対する考え方が、徐々に会社と私の気持ちの中で差がどんどん離れていく事を感じはじめました。それは私が昇進するにつれ会社と私の気持ちの差が開いていきました。私は、純粋にデザインにこだわり、よいデザインを創りたい。という気持ちに対して、会社は印刷屋であるがゆえに、印刷機を止めてはならない、質より量をこなせ。…といった考え方でした。
デザイナーがクライアント様に会うという事が出来ず、会社側もデザイナーがクライアント様に会う時間があるのだったら、その時間、制作物を創る作業に徹するべきだという考え方です。営業が、クライアント様と打ち合わせをしてきているから、デザイナーはそれを形にすれば良い。そんな感じでした。
結局、デザイナー=単なるオペレーターに過ぎなかったんですよね。その時、フッと、専門学校時代の恩師からの、すっかり忘れていた声が頭を過りました。「印刷屋のデザイナーにだけはなるな!」…、そう言えば、卒業真際に言われたっけなぁ~。私はその頃、過労と心労が祟り、会社を辞めざるを得なくなっていました。

そして、決心!念願の独立!
自分の会社での地位が上がるにつれ、自分のやりたい本当のデザインからかけ離れていく。そんな気持ちがピークに達した時、ついに退職し独立して自分のやりたい本当のデザインを目指そうと決めました。これが、「K-BRAND」の切っ掛けです。最初は凄く迷いました。
折角登り詰めた会社での地位と安定した収入。どうなっていくか分からない独立の道。しかし、自分は後悔したくないと独立を選びました。そして、念願であった独立し自分の事務所を持つといった夢が叶いました。1つの夢が叶ったら、また次の夢(目標)もできました。

自問自答!
独立したものの仕事は「以前の印刷会社からの外注扱い」と「数カ所の広告代理店からの仕事」で、仕事内容的にはサラリーマンデザイナーと何ら変わりない状態でした。変わったと言えば、毎月定額の給料ではなく仕事をしたらしただけの出来高制ぐらいでしょうか。次第に、毎日が同じ事の繰り返しで、しかも「フリーになったのは何の為なのか?」と言う事に疑問を抱くようになりました。
この時、収入面で言えば、会社に勤めていた頃に比べ遥かな違いで「成功」していたと言えるのでしょうが、仕事の内容には、疑問がつきまとうようになりました。
本当に今までの延長線上での独立を自分は求めていたのだろうか…?成功とは、収入面だけで成功と言えるだろうか?本当の自分のあり方とは…、そして、2001年に本来やりたかったイラストの世界に足を踏み入れる。現在イラストに主力をおいて活動中です。収入はかなり激減しましたが、感動や喜びはそれまで以上に多く得られるようになりました。これで、収入も増えれば、更に良いのですが…。

この記事は、Official WEB Siteを閉鎖、そして、このBlogをOfficial WEB Siteに変更するためプロフィールの移転記事です。





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