ランボルギーニカウンタックLP500Sまたの名を「ウルフ・カウンタック」と呼ばれています。
この車は、カナダの石油王
「ウォルター・ウルフ」がオーダーし
作らせたカスタムメイドのカウンタックです。その為に、当時は、
「世界に1台の幻の車」と言われていました。
LP400(クリック)をベースとしながらも
5000ccのエンジンが搭載されています。
熱狂的なランボルギーニ・マニアだったウォルター・ウルフは
待ちに待ってたカウンタックが発売される
という話を耳にすると、すぐさまオーダーを入れ
量産2号車となるLP400を手に入れました。
しかし、1971年のジュネーブ・ショーで発表された
プロトタイプよりも1リッター縮小された、
4000ccのエンジンに不満を持ち、
プロトタイプに搭載されていた
V型12気筒4971ccのエンジンを搭載した
カウンタックの製作を依頼したのです。更に、このカウンタックは
エンジンの容量アップ
(パワーアップ)に伴い、
大きな可変ウイングとオーバーフェンダー、
ブラーボというコンセプトカーから引き継いだホイールに、
ピレリ製超扁平タイヤが装着されました。
このウルフカウンタックは
最終的に3台が製作されたようです。そのうちの初号車は巡り巡って、
一時期、横浜の圓光寺、
49代目住職 織田無道の元にありました。
現在も所有されてるのかどうなのかは、
定かではありませんが…。
●サイズ:全長4140mm/全幅2000mm/全高1070mm
●車輌重量:1480kg
●エンジン:4971cc V型12気筒
●最高出力:375ps/7000rpm
●最高速度:315km/h
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Gノーズとオーバーフェンダーが憧れでした。1969年10月。
オープンカーだったフェアレディ2000が
フルモデルチェンジを受け、
初代フェアレディZ
(S30)がクローズボディの
美しいファストバックスタイルで誕生しました。
「FAIRLADY」は貴婦人、
アルファベットの最後の文字である「Z」は究極を意味します。当初、国内で発売されていたフェアレディZは、
130PSをを発生する2000cc直列6気筒SOHCの
L20型エンジン搭載のZ/Z-Lと、
2000ccでありながら160PSを発生する
直列6気筒DOHC24バルブS20型
(GT-Rと同じエンジン)を積む
Z432の3車種だけでした。
1971年10月に、それまで輸出専用だった
2400cc直列6気筒SOHCエンジンのL24型を
搭載した240Zが国内でも販売開始されました。メカ的にはL20に代わり、
2400cc SUツインキャブのL24を搭載したというだけでしたが、
1t少々のボディに21.0kgmの大トルクが
もたらす走りは豪快そのものでした。
中でも一際目立っていたのが240ZGです。エアロダイナ・ノーズ
(通称Gノーズ)と
呼ばれる更に長いノーズを持ち、
ボルトオンタイプのオーバーフェンダー等を装備した、
この車は高性能な走りに加えて販売期間が短く、
生産台数が少ない事もあり自動車ファンの羨望を集めました。
S30Zは北米で“Z car"の名前で絶大な人気を誇り、
海外でもメジャーになった初の国産スポーツでもあるのです。●サイズ:全長4305mm/全幅1690mm/全高1285mm
●車輌重量:1010kg
●エンジン:2393cc 直列6気筒
●最高出力:150ps/5600rpm
●最高速度:210km/h
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レーシングフィールドで育てられた
珠玉S20型エンジンを搭載。レーシングカーR380のエンジンを、
ほとんどそのままの形で移植されたモンスターマシン。「スカイライン」という名は、
日本のモータリゼーションの中では
極めて特殊な存在と位置付けられているようです。
極端な話、自動車に全く興味を覚えない人であっても
「スカイライン」という名前は知っているというぐらいポピュラーな名前です。
これほど一般に広く浸透した車の名前は、
日本においては他に例を見ないと言って良いでしょう。
スカイラインは、スポーツ・モデルとしての
スカイラインGTの名前として生まれたのではありません。
最初のスカイラインは、今はなきプリンス自動車が、
1957年に発表したALSIS-1型につけた名前でした。当時の国産車の中では
極めてアメリカ的な匂いのする乗用車でした。
この車の系列には後にグロリアとして
発展を続ける事になるのですが、
1963年になって全く新しい小型乗用車の名前として
再び「スカイライン」は登場することになりました。
S50D-1型としてデビューしたこの車は、
現代的なフラットデッキと
シャープなボディラインを特徴としていました。
1963年には、
第1回日本グランプリが出来たばかりの
三重県鈴鹿サーキットで行われ、日本も遅蒔きながら
モータースポーツの時代を迎えていました。
日本最初のモータースポーツイベントが
20万人もの観客を動員した事で、
その影響力の大きさに驚いた各自動車メーカーは、
こぞって来るべき翌年の第2回日本グランプリに向かって
大急ぎでスポーツモデルの開発になりました。
そして、プリンスでは、
1964年3月、このS50D-1型をベースに、
初代スカイラインGTであるS54-1型を限定生産する事にしました。
もちろん、同年の第2回日本グランプリへの
布石としての役目を持った車であった事はいうまでもありません。
小型のボディに大きな2000cc直列6気筒SOHCを
大径のウエーバー・キャブレター3個等で
チューンナップしたエンジン
(もとはといえばグロリア用)を
ロングノーズ化したスカイラインの
エンジンルームに押し込んだものでした。
結果は上々で、
ワークスドライバーである生沢徹の駆る「スカイラインGT」は、
ポルシェ904と対等の接戦を演じ、
僅差で2位になったものの「スカイラインGT」の名前を
決定的なものとしたのでした。
いつしか「スカG」の愛称で呼ばれるようになったスカイラインGTは、
日本初の本格的なGTとして一般にも親しまれる事になりました。
この限定生産車であるスカイラインGTを
一般に市販する事を望む声は強く、
1965年3月からスカイラインGT-Bとして本格的な市販が開始されました。
世はまさにモータースポーツの黄金期であり、
「スカG」はその中心的存在でした。
燃費や排ガス規制等は誰一人考えず、
面白くも危うい時代でもありました。
しかし、そうした事とは別にプリンス自動車は、
厳しい業界再編成の波から逃れる事は出来ず、
1966年8月に日産自動車へ吸収合併されてしまった。

「スカG」の命も途絶えるかに見えたのですが、
その後も「スカイライン」の名前は日産自動車の中で生き残ったのでした。
そして、以前にも増して大きく発展を遂げることになりました。
これが言うなれば「GT-R」の前史です。
今日の目から見れば、
4ドアスポーツセダン
(写真は2ドアですが)にしか過ぎず
スカイラインGTであったが、
当時の日本では並ぶもののない無敵の存在でした。

1968年の東京モーターショーで
第3世代の車として登場したNEWスカイラインは、
独特のサーフィンラインと呼ばれる
リアフェンダーのプレスラインを始めとして、
全くの新型車に生まれ変わっていた。
そして、人々はとてつもない車を見る事となりました。
外観上はクロームモールやホイールキャップ等の
光り物を外した地味なモノだったが、
そのエンジンルームを一目見た途端
この車が只物ではない事は見て取れました。なんと、そこにはDOHCのカムカバーと
エンジンヘッドよりも大きなマスを占める
3つのサイドドラフト型のツインチョークソレックスキャブレターがあった。
このエンジンこそ、
1966年の第3回日本グランプリに完全優勝を果した
プリンスR380のデ・チューンヴァージョンだったのです。
直列6気筒1989ccの排気量と
1シリンダー当り4つのバルブ(吸・排気それぞれ2個)をもつ
DOHCの高度な設計のヘッドは、
今でこそ当たり前ですが
当時としては他に類を見ない革新的なことでした。キャブレーションはR380のルーカスの
メカニカル燃料噴射システムからソレックスキャブレターへ、
カムシャフトのドライブはギアドライブから
複列のローラーチェーンに変更されていた
(一次はギア式)。
圧縮比は9.5と高く、イグニッションシステムは
オリジナルそのままのフルトランジスター型が用いられていました。
潤滑方式はウエットサンプとされました。
最高出力は160ps/7000rpm、最大トルクは18.0kgm/5600rpm、
そして、ミッションはマニュアルの5速
(ポルシェタイプのサーボシンクロを備える)。
最高速度は200km/h以上と発表されていました。
同じ時代のシェルビーGTやコルチナ・ロータス等と同じく、
スタンダードなセダンボディに
大型かつ強力なエンジンを組み合わせることによって、
破格の性能を実現させるとともに、
いささか乱暴な手段で造られたスポーツカーではあったが、
ファンは
“羊の皮をかぶった狼”というニックネームを奉って
その登場を歓喜して迎えたのでした。
今日ほどには空気力学的な意味合いが重視されていたわけでもなく、
極めて当り前のボクシーなセダンボディを持つスカイラインGTRの走る様は、
まさに空気を押しきって突き進むイノシシの如きでもありました。
しかし、サーキットに於ける成績は
他に強力なライバルの存在がなかった事にも助けられて、
国内のツーリングカーレースでは、
通算50勝の大記録を打ち立てました。
純粋なレーシングカーR380のエンジンを
ほとんどそのままの形で移植されたスカイラインGTRは、
日本のクルマの中ではレーシングフィールドから
直接的にフィードバックされた唯一の例と言って良いでしょう。
トヨタが同じようなスペックを持つ2000GTを
レーシングフィールドで熟成しようとしたやり方と対照的であり、
いかにも技術屋集団であったプリンス自動車らしい
アプローチであったともいえます。
そしてまた、スカイラインGTRの存在は、
かつての日本の自動車産業が経済効率といった
お金勘定を無視して造った事もあったのだという
事実の記録でもあります。確かに今の技術をもってすれば、GTRが持つ絶対的な性能等は、
それよりも遥かに小さいエンジンでも達成する事は容易いでしょう。
しかし、スカイラインGTRは単に性能のみでの評価はできないし、
するべきではないと思います。
自動車大国ニッポンと言われるようになってかなりの時間が経った。
少なくとも生産量の上では
世界一のタイトルをものにしたと言えるのではないでしょうか。
現在で例えるなら、F1マシンに使われるレース用エンジンを
市販車のセダンにそのまま乗せたような車であり、このGTR以降、そのような車は出現していない。だからこそ、スカイラインには数々の伝説があり、
GTRが特別である所以なのです。
およそ30年前に漠然と現れたスカイラインGTRは、
誰にでも乗れる車ではなかったからこそ伝説に成り得たのです。

●サイズ:全長4330mm/全幅1665mm/全高1370mm
●車輌重量:1100kg
●エンジン:1989cc 直列6気筒
●最高出力:160ps/7000rpm
●最高速度:200km/h以上
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M1のプロジェクトは、1972年に、
BMWミュンヘン博物館の開館を記念して作られた
BMW ターボ クーペから来ており2002用の
直列4気筒ターボをミドシップにマウントしたこの車は、
M1プロジェクトの精神的なモチーフとなった。そして、1979年10月、パリサロンでベールを脱いだのです。
モータースポーツを意味する“M”を冠した最初の生産モデルで、
BMW史上異彩を放つミドシップのスーパースポーツです。開発段階の初期にE-26と呼ばれていたM1は、
ヨーロッパGTカーレースへの参戦を目標にして立ち上がり、
狙うカテゴリーはポルシェの独壇場だった
グループ4、及びグループ5
(シルエットフォーミュラ)に定められた。
自製となる4.5リッターV型12気筒エンジンを用意し、
巨匠ジョルジェット・ジウジアーロを
ボディデザインに起用した。しかし、オイルショックの風が吹く一般世論から、
大きく重く、明らかにエコロジーとは無縁な
V型12気筒エンジンは葬り去られ、
更にBMWのレース用車両の開発を手がけていた
BMWモータースポーツ社の開発・製造キャパシティは
既存のプロジェクトで手一杯で、とてもM1の開発を
請け負っていられる状況ではなかった。
そこで、経営破綻の危機に限りなく近づいていた
ランボルギーニ社にシャシー関連製造の
全てを託す事となったのです。開発には、レーシングカー関連の設計を手がけ、
のちにレーシングカーのシャシーを製作する会社を興した
ジャンパオロ・ダラーラが行った。シャシーには角型鋼板で形成されたセミスペースフレームを採用し、
全ての応力を強靭なフレームのみで受ける構造となっている。
そのため、ストレスのかからない外板は全てFRP製で、
ボルトオンと接着を併用して取り付けていた。
鋼管と角型鋼板により構成されたフレームに
前後ダブルウィッシュボーンのサスペンションを備えた、
純レーシングカーのようなシャシーに、
採用を撤回されたV型12気筒エンジンに代わり、
ツーリングカーレース用の3.5CSLの為に開発された、
M88型 直列6気筒DOHCの3453ccエンジンが選ばれた。3.5リッターの排気量を持つこのエンジンは、
クーゲルフィッシャー社の機械式インジェクションを組み合わせ、
277馬力をリミッター直前の6500回転で発生させ、
低回転域から分厚いトルクを発生する特性は、
典型的なBIG 6 エンジンに設定された結果といえる。
このユニットは長大であり、
その結果ホイールベースが長くなってしまう弊害が出たが、
エンジンオイルのドライサンプ化で、かなり低い位置にまで
重心の高いエンジンを下げて搭載する事ができた。そのため、クランク軸は地上から18.5cmに設定されている。
開発段階で様々な変更を余儀なくされたしたM1は、
実際の生産段階において、それ以上の変遷を味わう事となった。まず開発を担当したランボルギーニはシャシーの製造に着手が、
その生産スピードは、あまりにも遅く、
それはBMWの腹を煮えくり返させる事となってしまった。
破綻寸前のランボルギーニをあっさりと見限り、
ランボルギーニのフレームを担当して来たマルケージ社から、
シュツットガルトのバウア社に委託を決定したものの、
肝心のFRPボディの生産は、イタリアに拠点を持つ、
ジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザイン社に
シャシーを送り、FRP外板取り付け塗装などを行い、
最終的にはBMWモータースポーツによって
サスペンションやブレーキ関連の組み付けを行っていた。
非常識なまでに生産能率が悪く、
週2台という生産ペースは遅れに遅れ、
月3台前後がやっとという有様だった。到底グループ4の参戦条項である、
「連続する12ヶ月間に400台の生産」を満たす事ができず、
それまでシャシーの製造をのみを担当していたバウアに
最終工程の一部を負担させ1980年の後期に
ようやくグループ4参戦の足がかりを掴むことができた。
…とはいっても、これは「連続する12ヶ月間」という項目を
特別に免除された事により達成された。1981年からグループ4に参戦出来るようになったものの、
翌年には規則改正による新カテゴリーが実施され、
M1によるBMWのモータースポーツ活動は、
意気込みとは裏腹に短命に終わってしまった。そんな不運なM1であるが、
運動性能は、277PS/6000rpm、33.0kgm/5000rpmの
パワーによって最高速度262km/h、0-100km/h加速5.6秒
というハイスピードで走らせた。
1981年までに456台が生産されたのみで打ち切られてしまい、
スポーツカーレース制覇というBMWの野望もついえた。
BMWらしい高品質と高性能、
そして快適性を備えた希有な存在でありながら、
プロジェクトとしては失敗に終わったM1は、
悲劇のスーパースポーツであった。●サイズ:全長4360mm/全幅1824mm/全高1140mm
●車輌重量:1300kg
●エンジン:3453cc 直列6気筒
●最高出力:277ps/6500rpm
●最高速度:262km/h
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1967年フランクフルト・モータショーで発表展示された
ピニンファリーナデザインによる206型のプロトタイプモデル。
当時最新の空力科学を投入した斬新なスタイルが魅力。
主デザインはパウロ・マルティン。最も美しいフェラーリとして名を挙げられる事も多いDino。
かのエンツォ・フェラーリの息子、アルフレッドが父に、
これからはV12マシンだけじゃなく、
小型のスポーツカーも作るべきだ。と発言した事から開発がスタートします。

アルフレッド自身もエンジン技術者として携わっていますが、
彼は白血病を煩い、車の完成を待たずに24歳の若さで死亡。
エンツォは最愛の息子に敬意を表す為、
この小さなスポーツカーに跳ね馬のエンブレムを与えず、
ただ「Dino(アルフレッドの愛称)」とだけ名付けました。また、フェラーリのイメージカラーが赤に対して、
Dinoのイメージカラーは、
フェラーリのエンブレムに使われる黄色。
そんなDinoですが、生産に至るまでに、
いくつかのプロトタイプが作られています。
1965年に最初のプロトタイプが登場。
そして翌年には生産型に限りなく近いプロトタイプが登場。
更にその翌年の1967年。
前年のプロトタイプ・Dinoをベースにレーシングモデルが登場します。
それがDino 206 Competizione(コンペティツィオーネ)。このデザインから市販のDinoに発展したわけではありません。

スーパーカー世代の方はご存知の通り、
マンガ『サーキットの狼』で、主人公の矢吹裕矢が、
流石島レースで駆った
フェラーリ・ディーノ・RS
(レーシングスペシャル)で有名になりました。
しかし、このマンガに登場したフェラーリ・ディーノ・RSは、
Dino 206 Competizioneをモデルに描かれた架空の車です。
Dino 206 Competizioneとフェラーリ・ディーノ・RS(クリック)「サーキットの狼」池沢さとし(早人師)氏の公式サイト(クリック)●サイズ:全長4265mm/全幅1685mm/全高1030mm
●車輌重量:700kg
●エンジン:1978cc V型6気筒
●最高出力:218ps/9000rpm
●最高速度:?km/h
●関連記事
Ferrari Dino 246GT(1969)(クリック)
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1972年、4代目スカイラインは、
バズが歌うCMソング『ケンとメリー〜愛と風のように〜』が
キャンペーンソングとして起用され、
キャッチコピー「ケンとメリーのスカイライン」から、
「ケンメリ」の愛称で親しまれました。ロマンチックでヒューマンなストーリーに、
若者から年配者まで幅広い世代に共感が集まり、
一種の社会現象を巻き起こしました。
当初はL型エンジン搭載車のみでした。
スカイラインのイメージリーダーカーであるGT-Rが、
新しい衣を被って復活するのは、
2000GTの発売から4カ月後の事でした。型式名KPGC110を与えられた2代目GT-Rは、
2ドアハードトップをベースに作られました。
全体のシルエットは2000GTと変わっていないが、
ブラックアウトされた精悍なフロントマスクを採用し、
4輪にビス止めのオーバーフェンダーを配しています。
また、リアエンドには安定性を高める為にスポイラーが装備され、
当然、ボディサイドに付けられるのは栄光の赤バッジです。初代GT-R同様、S20型エンジンを積み、
4輪ディスクブレーキ等を満載して
「狼」の片鱗をうかがわせた。
…しかし、GT-Rが発表された時期は、
折しも時代はオイルショックまっ只中。S20型エンジンの変更を余儀なくされたGT-Rは、
他のエンジンの搭載を拒否し、デビューから僅か4ヶ月、
197台が生産されたと言われ、
うち195台が市販されただけで生産が終了された。
生産台数が極端に少ないがゆえに幻のGT-Rとして有名で、
旧車市場において非常に高額で売買されている。
●サイズ:全長4460mm/全幅1695mm/全高1380mm
●車輌重量:1145kg
●エンジン:1989cc 直列6気筒
●最高出力:160ps/7000rpm
●最高速度:200km/h
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カムシンとは、
サハラ砂漠を吹き渡る熱風のアラビア語です。
マセラティ・ギブリの後を受け、
1972年トリノショーにデビューしたカムシンは、
当時のマセラティ最上級モデルということで、320psを発揮する
450S直系のV8エンジンが与えられ、
最高速度は275km/hでした。ベルトーネによるデザインは、
インディやギブリのラインを
更にシャープに仕上げたような
強烈なウェッジシェイプスタイルが特徴で、
リアデッキが極端に高い設計となります。そのため、リアのエンドパネルには
着色ガラスが使用され後方視界が確保されています。
デビュー当時は運悪く
第一次オイルショックと重なった影響もあり、
残念ながらごく少数の生産に終わっています。
現在、日本国内にも20数台しかないそうです。●サイズ:全長4430mm/全幅1800mm/全高1200mm
●車輌重量:1680kg
●エンジン:4930cc V型8気筒
●最高出力:320ps/5500rpm
●最高速度:275km/h
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20世紀の国産車史上、
「美しさ」では1、2を争うのではないでしょうか?全高わずか1160mmのスタイリッシュなボディは、
現代の目で見てもため息が出る程の美しさで、
当時も今も車好きにとっては生唾を飲む程の
「お宝」と言っても過言ではない。オリジナリティ溢れるスタイリングは海外でも評価され、
切れ長のサイドウインドーは、
「オリエンタル・アイズ」と呼ばれ賞賛された。
デビューより2年早い1965年に、
東京モーターショーで発表された2000GTは、
第3回日本グランプリへの参戦など、
モータ−スポーツ活動にも参加したが、
やはり、この車の価値は走りよりも、
工芸的な美しさと仕上げの良さでしょう。
…しかし、
このように工芸的な美しさばかり注目してると、
「肝心の運動性能は低かったのか?」と誤解されそうですが、
実は、運動性能もピカイチの出来で、
1960年代の日本製自動車としては
異例の高度なメカニズムを持つ画期的な存在でした。性能面でも世界基準に達した事で、
日本車の歴史上一種の記念碑と言える伝説的な名車です。そのような高性能車であるにも関わらず、
あまりにも美しいスタイルを得た為、
注目はその美しさに偏ってしまったのです。エンジンは、当時のクラウンに搭載されていた
SOHCだったM型をヤマハ発動機がチューンナップしDOHC化。
ソレックスが装着された強力なユニットが搭載されていました。
更に足には、
4輪ダブルウイッシュボーンサスペンションに、
ディスクブレーキが装備されていました。
センターロックのマグネシウム製ワイヤーホイール、
ローズウッドの内装等贅を尽くした内容は
高級GTに相応しいものでした。
当時の価格は、238万円。トヨタの高級車であるクラウンが2台買える程。
1967年の大卒者の初任給が
26,000円前後の時代ですから現在の価値で換算すると、
1,500万円〜2,000万円相当とも言われてます。1967年5月から1970年8月生産終了。
3年間で、わずか337台の生産で幕を閉じました。2000GTは、007シリーズの第5作。
日本を舞台にした映画「007は二度死ぬ」にも登場し、
ショーン・コネリー扮する
ジェームズ・ボンドを乗せて走り回った。
この為「ボンドカー」と言われる事があるが、
2000GTはジェームズ・ボンドの為に
イギリス秘密情報部が用意した特装車ではなく、
丹波哲郎率いる日本情報部の車という設定である為、
厳密にはボンドカーではない。●サイズ:全長4175mm/全幅1600mm/全高1160mm
●車輌重量:1120kg
●エンジン:1988cc 直列6気筒
●最高出力:150ps/6000rpm
●最高速度:205km/h
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ポンティアック・トランザム、或はトランザムは、
アメリカとイタリアが速さと美しさを優先して
共同生産したスポーツカーで厳密には
ポンティアック・ファイヤーバードのバリエーションです。GM社内ではシボレー・コルベットの弟分に位置づけられており、
新技術を率先してコルベットに採用する一方で、
トランザムにはコルベットで熟成された技術が引き継がれ、
更にその技術がシボレー・カマロに受け継がれる伝統がある、
アメリカンスペシャリティの代表的存在。マスタング、カマロと並ぶクーペ御三家の1台だ。ファイヤーバードは1967年に誕生し、
2002年の生産終了まで4回のモデルチェンジを行っています。
ここで、紹介するファイヤーバード・トランザムは、
1982年にモデルチェンジされた
第三世代(3rd)トランザムです。1982年〜1984年の前期モデル、1985年〜1990年の中期モデル、
1991年〜1992年の後期モデルと
短いサイクルで3回ものマイナーチェンジが行われています。
2ドア4シーターのこのモデルは
カマロと基本コンポーネンツを共有するもので、
ボディパネルも共通部分が多い。
カマロがフィックスドヘッドライトを持つのに対して、
ファイアーバードはリトラクタブルライトとなる。
本国にはベースモデルに加えて
フォーミュラ、トランザム、トランザムGTAの
4モデルがラインナップされていた。このうち日本へ正規輸入されたのは
5リッターのV8のトランザムとトランザムGTAのみ。
駆動方式はFRで、ミッションはいずれも4AT。
ちなみに
本国仕様のGTAにはマニュアルミッションの設定もあった。
1992(H4)年末に終了するこのモデルをもって、
ファイアーバードシリーズの日本正規輸入は中止された。

3rdファイヤーバード・トランザムは、
1982年9月26日から1986年8月8日に
アメリカで放映されたテレビ番組。
デイビッド・ハッセルホフ主演の
ナイトライダーに登場する、マイケルの相棒「K.I.T.T.」として
高性能人工知能を搭載したドリーム・カーとなって登場し、
話題を呼んだ車で、レプリカも多く存在しています。
●サイズ:全長4970mm/全幅1845mm/全高1300mm
●車輌重量:1550kg
●エンジン:4986〜5727cc V型8気筒OHV
●最高出力:205〜240ps/4200〜4400rpm
●最高速度:200km/h
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ロータス・ヨーロッパは、
タイプ名46として1966年に発表された
ロータス初のミドシップスポーツカー。Z軸回りの慣性モーメントを減らすという、
高い運動性能を求めたエンジンレイアウトを持つが、
ルノー16のパワーユニットを用いる等、
入門スポーツカーとしての性格も併せ持っていた。そして、
1972年に登場した最終型が、
ロータス・ヨーロッパ・スペシャルです。エンジンが、従来のツインカムエンジンから
更なるチューンを施した
通称ビッグバルブと呼ばれる物に変更された。エンジン自体はツインカムユニットであるが、
吸入空気をより多く吸い込むために
インテークバルブが大型化され、
圧縮比も高められている。
これらの変更により、最高出力は126馬力と、
歴代の市販型ヨーロッパでは
最強のエンジンパフォーマンスを誇っている。
また、動力性能の変化はこれに留まらず、
初めてトランスミッションにもオプション設定で、
ゴルディーニ製5段マニュアルミッションに
換装する選択肢も設けられた。
●サイズ:全長3980mm/全幅1650mm/全高1090mm
●車輌重量:712kg
●エンジン:1558cc 直列4気筒
●最高出力:126ps/6500rpm
●最高速度:200km/h
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